「火焔土器」のエネルギッシュな造形から、長岡の縄文時代を紐解く
燃え盛る炎や、渦巻く水の流れなどを表現したような壮大なスケールを持つ「火焔型土器」は、長岡市を南北に縦断する信濃川流域で出土した縄文時代中期中頃の土器です。圧倒的な存在感を放つ「火焔型土器」の造形的な魅力や、その使用用途、作られた地域の特徴などを紐解きながら、信濃川流域で育まれた縄文人の暮らしや世界観に想いを馳せてみませんか。
写真提供
・新潟県長岡市教育委員会(郷土料理のっぺ、縄文人の世界、以外の写真)
・PIXTA(郷土料理のっぺ)
・新潟県立歴史博物館(縄文人の世界)
エネルギッシュな造形に、日本を代表する芸術家もビックリ!?
火焔型土器の主な特徴は、まず器の上部に付けられたニワトリのトサカのような派手な突起が4つあること。そして器の口の部分には、ノコギリの歯のようなギザギザのフリルが付いていることです。胴の部分には渦巻きのような紋様があり、全体で見ると燃え盛る炎のようにも、海や川の流れのようにも見え、火焔型土器が出土した信濃川流域の豊かな自然と、そこに息づく生命のエネルギーを表現しているかのような、スケールの大きいイメージをもたらしてくれます。
日本を代表する芸術家の1人である岡本太郎氏も、火焔型土器の写真とともに掲載した美術雑誌の論文で、「縄文土器の荒々しい、不協和な形態、紋様に心構えなしにふれると、誰でもがドギッとする。なかんずく爛熟した中期の土器の凄まじさは言語を絶するのである」と驚嘆を示し、その造形美に日本文化の源流があると讃えました。
火焔型土器に秘められた謎解きをしてみよう!
生命のエネルギーを奔放に写し取ったかのように見える火焔型土器ですが、実はその造形には決められたルール、規格性のようなものが見られます。例えば、火焔型土器の一番の特徴であるニワトリのトサカのような形をした突起は必ず4つであり、それを裏側から見るとローマ字の「S」を横にしたような形が浮かび上がります。さらに、突起に開いた窓のような穴は、多少いびつではありますが「ハート」型に抜かれているものが多いのです。なぜこの形になったのか? そこにどんな意味が込められているのか? 未だよくわかっていませんが、火焔型土器を作っていた縄文人の間で共有されていた、ある種の世界観がそこに込められているのではないでしょうか。想像力を膨らませて、あなたもこの謎を解いてみませんか?
火焔型土器には弟分が存在する!?
同じ遺跡から「火焔型」と「王冠型」という2つの対になるようなデザインの土器が発掘されるのはとても興味深いことです。國學院大學名誉教授で、新潟県立歴史博物館の館長も務めた考古学者の小林達雄氏によれば、これは陰と陽、夜と昼、女と男、死と生というような、この世には対となる2つの軸があるという考え方に通じ、そこに縄文人の世界観がよく現れているのではないかと考察しています。
「おこげ」からわかる縄文人の食糧事情
さらに、科学的な分析で土器の内部に残ったおこげ(炭化物)を調べてみたところ、植物性と動物性の食材を調理していたことが推定できます。今でも長岡市の山間部では、木の実や山菜、芋類などが豊富に手に入り、信濃川の流域では昔からサケ漁が盛んに行われていて、そうした豊かな自然の恵みをごった煮した「のっぺ」がこの地域の郷土料理として親しまれていますが、あるいは縄文人たちが火焰型土器で作っていた料理が、「のっぺ」のルーツなのかもしれませんね。
豊かな食の恵みに感謝の気持ちを込めて…
縄文時代の始まりは、今からおよそ15,000年前といわれていますが、この頃、起こった革新的な出来事は、人々が煮炊きをする「土器」を使い始めたということです。土器を使って調理をすれば、熱による殺菌効果で食材が衛生的になったり、固い植物繊維や動物の肉が柔らかくなって食べやすくなったり、食材に含まれる有害なアクを煮出して取り除くことができるようになるので、縄文人の食生活はとても豊かなものになりました。信濃川の流域に暮らした縄文人も、そんな豊かな食の恵みをもたらしてくれる土器に感謝し、崇拝の意味を込めて、豪華な火焔型土器を作ったのかもしれませんね。
信濃川流域に広がっていた「火焔のクニ」
この地域は、縄文時代に起きた環境の変動によって、約8,000年前から世界でも有数の豪雪地帯になりました。信濃川の両岸にはもともと河岸段丘という階段状の地形が発達していたため、そこに冬の間、降り積もった雪が溶けて染み込み、大量の湧き水が出る場所ができました。今から5,000年ほど前の縄文中期に生きた人々は、こうした湧き水の近くに集まってムラを作り定住を始めます。その規模と密度は日本有数で、周辺のムラと交流、交易をしながら、火焔土器文化圏ともいえる大規模な「火焔のクニ」を形成したと考えられています。
火焔型土器が生まれたムラの暮らし
馬高遺跡では、火焔土器の他にも狩りに使う石鏃、土木作業に使う打製石斧、木材加工に使う磨製石斧などが見つかっていて、こうした道具類から馬高ムラの縄文人たちの暮らしぶりをうかがい知ることができます。また、祀りや儀式などに用いられたのではないかと考えられる土偶や石棒なども見つかっており、何らかの対象に対して祈りを捧げるという精神文化が発達していたことがわかります。
ムラの移動と、新たな土器様式の誕生
三十稲場のムラでは、馬高では見られなかった新たな土器様式「三十稲場式土器」が作られるようになりました。三十稲場式土器も、信濃川や阿賀野川の流域で当時、大変流行した土器様式です。その特徴は、甕形の土器にヘラのような工具で表面を突き刺して付けたような紋様があり、それと対になるような土製の蓋が付いています。現代の私たちも蓋が付いた土鍋を使って鍋料理をよくやりますが、三十稲場の縄文人の間でも鍋料理が食べられていたのかもしれませんね。
豊かな自然環境とともに生きた縄文人の暮らしに思いを馳せる
とても数が多く、エリアも広域に渡るので、1つ1つの遺跡を見に行くことは難しいかもしれませんが、市内の馬高縄文館、新潟県立歴史博物館、長岡市立科学博物館では、新潟県内各所で出土した本物の火炎土器を見ることができるほか、火炎土器が作られた時代の縄文人の暮らしを体系的に理解することができる展示も充実しています。約5,000年もの歴史を超えて遺された火炎土器の姿から、日本文明の源流ともいえる縄文人の暮らしに触れ、彼らが育んだ豊かな世界観に想いを馳せてみませんか。