慧眼と大和魂と。世界的視野を持った男はなぜ散ったのか。
誠意と慈愛の人、山本五十六

2019.12.01

長岡が生んだ「世界的人物」の一人である山本五十六。
連合艦隊司令官として、真珠湾奇襲攻撃を指揮し、太平洋戦争の火ぶたを切った軍人として知られる一方で、たくさんの「なぜ?」を残した人でもあります。
卓抜した先見性で敵国との国力の差を知りながら、なぜ開戦?正義感に満ちた人と言われながら、なぜ奇襲攻撃をしかけたの?なぜ危険を知りながら前線に赴き、壮絶な最期を遂げたの?なぜ死後に元帥の称号を与えられ、国葬となったの?素顔は、誠意と慈愛に満ちた魅力ある人だったと伝えられる五十六。
「なぜ?」の答えをお届けします。

薩摩をやっつける…長岡人のプライドを胸に、海軍兵学校へ

  • 海軍兵学校時代の五十六
  • 五十六生家

 幕末最後の戦いである北越戊辰戦争に敗れ、焦土と化した長岡。その傷跡がまだまだ残っていたであろう1884(明治17)年、五十六は長岡に誕生しました。生家は長岡藩の儒学者であった高野家。槍術の師範も兼ねた家柄で、文武両道の家風の中で五十六は育てられます。
 中学卒業後、海軍兵学校に進学した五十六。その志望動機は”薩摩の海軍をやっつけるため”と親友に語ったという話も残っています。かつて北越戊辰戦争で長岡城を攻撃した薩摩は、長岡人にとっては仇のような存在。五十六は薩摩出身者が要職を占める海軍で一人前の仕事をするため、海軍兵学校を志望したというのです。真偽不明ながらもこの話は、生涯長岡をこよなく愛し、誇りを持ち続けた五十六の心情を考えればさもありなん。五十六の祖父・高野秀右衛門は北越戊辰戦争で命を落とし、父・貞吉と2人の兄も負傷。敗戦による苦労や貧しさの中で育った五十六にとって海軍兵学校への進学は、長岡人のプライドを知らしめる大きな挑戦だったのかもしれません。

生死をさまよい決意した 日本国へのさらなる尽力

  • 海軍少尉時代の五十六

 1901(明治34年)、海軍兵学校に入学。全国から選び抜かれた精鋭とともに、五十六は海軍士官になるべく教育を受けます。仲間と切磋琢磨しながら4年間を過ごして無事に卒業しましたが、日露戦争の影響により、卒業生の楽しみであった遠洋航海が中止に。すぐさま少尉候補生として軍艦に乗り込み、日露戦争に参加。五十六は軍人として歩み始めます。
 長岡の両親に手紙を送り、永遠の別れを告げて乗り込んだ巡洋艦「日進」。五十六は敵の砲弾により、2本の指を失いました。傷口から全身に細菌がまわり、生死をさまよいながら3か月あまりの入院生活を送った五十六は、意識を取り戻した時、さらに国のために尽くす決意を固めたそうです。その時の心境を姪に宛ててこう綴っています。
 「天は我に新しい命を授け、軍人としてもう一度、国のために尽くすよう命じられた」。すべては国のため。五十六は軍人としての自覚と使命感のもと、さらに資質を磨き、次第に頭角を現していきます。

父母を慕い、妻を想う…人間味あふれる素顔

  • 結婚記念写真
  • 婚約の前日、妻となる禮子に送った五十六の手紙

質素剛健、愛想なし。不言実行の美学を持ち合わせていた五十六ですが、その素顔は喜怒哀楽に富み、実に人間味あふれる温かな人柄であったそうです。1913(大正2)年に相次いで両親を亡くした際、その悲痛な胸の内を小学校時代の恩師に綴っています。
 「両親共に遂に死に目にも会はず、葬式にも列せず。武門の常、父の遺訓として、敢えて残念と存じ申さず候得共、今両三年と思ふふしもこれあり。殊に母は未だ高齢と申程にこれなく」。
 親の死に目に会えなかったわが身を嘆き、母にはあと3年は生きてほしかったという思い。その寂しさ、無念さを率直に表す素直さに、五十六の人間味が感じられます。
 両親の死から3年後、五十六は旧長岡藩主の牧野忠篤らに懇願され、その思いを汲んで旧長岡藩家老の山本家を継承し、高野五十六から山本五十六に。北越戊辰戦争以来、断絶していた山本家の再興は長岡の関係者にとって悲願でした。当時、山本家には財産らしいものはありませんでしたが、五十六はこれも天命、と受け入れます。
 そのころから海軍少佐として将来を嘱望され始めた五十六は1918(大正7)年、旧会津藩士・三橋康守の三女である禮子と結婚。婚約時代には”これからは他人と思わず、何でも話してほしい”そして結婚した際は”人一倍のご苦労をかけるが家のことはすべて任せ、自分は職務に専念したい”旨を手紙に書いたことなど、五十六の律儀でやさしい性格を物語るエピソードが数多く残っています。

留学。随行。視察。海外渡航が育んだ自由と平和への憧れ

  • 武官時代
  • ワシントン議事堂の前で

 結婚してまもない1919(大正8)年、ハーバード大学へ留学。さらにその6年後の1925(大正14)年には米国駐在日本人大使館付武官に。五十六にとって海外渡航の経験は、英語を磨き、視野を広げただけでなく、人間は人類のために何をなすべきかを深く考えるきっかけになりました。そもそも五十六は中学時代、植民地領主に反抗する民衆の指揮者になったアメリカの政治家ベンジャミン・フランクリンを尊敬し、アメリカの自由主義に憧れ、人間の平等について自ら学んでいました。
 渡米して、英語力をつけるために読んでいたのはリンカーンの伝記。貧しい家に生まれたリンカーンがその生涯をかけて奴隷の開放、人類の自由を訴えたことを知り、深く感銘したといいます。五十六は写真が好きでアメリカ駐在時代にもよく撮影していたそうですが、被写体の多くは現地の女性や子供たち。日本を出て見聞を広げる中で大きな人類愛を育んでいったのでしょう。
 五十六は軍人の立場で世界平和と日本の安全に働いた人でした。海軍軍縮条約締結への努力、三国同盟への反対。戦争を憂う五十六の心中とは裏腹に、結局は次第に悪化していきます。

司令長官として戦いの最前線へ。真珠湾奇襲攻撃。前線での指揮。悲運の最期

  • 連合艦隊司令長官として軍艦「長門」に乗る
  • 海軍一式陸上攻撃機の左翼部分

 日米開戦の危機が迫りつつある1939(昭和14)年、連合艦隊司令長官に就任。戦争は絶対に避けなければならないという信念を貫いてきたにもかかわらず、軍人として実践指揮をとらざるを得ない立場となった五十六。欧米と比較して軍備の劣る日本を唯一、勝利に導く攻撃として、真珠湾奇襲作戦を主張したことはよく知られています。
 1941(昭和16)年、太平洋戦争開戦。真珠湾攻撃を発端に戦いが激化していく中、五十六は前線へと赴き、トラック諸島やラバウルで陣頭指揮をとります。そして1943(昭和18の)年、一式陸上攻撃機に乗り込んだ五十六。その動向は暗号解読などによってアメリカ軍の知るところとなり、五十六の乗った戦闘機はブーゲンビル島上空で待ち伏せ攻撃に遭い、ジャングルに墜落します。
 五十六はなぜ、命の危険を顧みずに戦いの最前線に出て行ったのでしょうか。戦死後、トラック島の司令長官私室を整理した際、二つ折りの紙が出てきます。そこにしたためられていたのは、戦いの犠牲となった多くの人の悼み、自分も死地に行くという五十六の覚悟でした。
 かつて航空戦力の増強をはかるための猛特訓で事故が起きるたびに、食事が喉を通らず、ボロボロと涙を流したという五十六。多くの若者が戦争の犠牲になっていくのを見てきた中で、五十六は勝敗にかかわらず、自ら生き残ろうとは考えていなかったようです。

敗軍の将ながら永遠の英雄に。壮絶な最期が日本人の魂に刻んだものとは

  • 長岡駅に到着した五十六の分骨を市民が出迎える

 死後、軍の最上級を表す”元帥”の称号を与えられた五十六。その葬儀は国葬となりましたが、当時、皇族や華族でない平民で国葬にされたのは五十六だけだったそうです。
 生前、大国を相手に堂々とした姿勢を貫き、国民から厚い信頼を得ていた五十六。人を思いやる純真さと、平和を守るため戦争回避に尽力した先見性を持ちながらも、悲運の戦死を遂げた五十六の生涯は、映画や書籍などで繰り返し伝えられ、戦後約70年を経た今も私たちに鮮烈な存在感を与え続けています。
 五十六がもしも生きて戦後を迎えたら、その後の人生はどのようなものだったでしょう。平和な時代の五十六を見てみたい…そんな気がしませんか。

五十六記念館が語り掛けるもの 五十六の魅力を知るなら山本五十六記念館へ

  • 山本五十六記念館
  • 記念館内観

五十六の誠意と慈愛に満ちた人間性、波乱の生涯を伝える山本五十六記念館。五十六がおおらかで明るい性格であったことを物語る兄・季八に宛てた手紙や、家族、恩師、友人知人との心温まる交流の証など、人間・山本五十六を知る手掛かりとなる貴重な史料を展示しています。
 記念館の近くには、五十六が生まれ育ったかつての髙野家の土地を整備し、生家(復元)と胸像が建造された山本記念公園があります。五十六が愛した長岡でゆかりの地を巡りながら、五十六の歩んだ人生と魅力あふれる素顔に触れてみてはいかがでしょうか。


※(参考文献)
  「新潟県人物小伝 山本五十六」稲川明雄著、新潟日報事業社
  「山本五十六記念館展示図録」山本五十六記念館