長岡復興の恩人“三島億二郎の功績とは?

2020.12.18

幕末動乱のなかで起こった北越戊辰戦争によって、壊滅的な被害を受けた長岡の町を復興へと導いた三島億二郎。
彼が実践した復興策は、長岡の未来を明るいランプのように照らしました。
長岡市民から“復興の恩人”として今も愛される、三島億二郎の功績についてご紹介します。

三島億二郎ってどんな人?

幕末から明治にかけて活躍した長岡の三傑をご存知ですか? 1人目は風雲急を告げるこの時代に長岡藩を率いた最後のサムライ・河井継之助。2人目は、「米百俵」の故事で知られる先覚者・小林虎三郎。そして3人目が、今回ご紹介する三島億二郎です。

北越戊辰戦争で廃墟と化した長岡の町を復興するために、明治政府が次々と打ち立てる新しい政策や制度を、長岡の風土に見合ったカタチで導入して新しい産業を起こしたり、銀行、病院、学校といった現代の市民生活にも欠かせないものを最初につくったりしたのが三島億二郎です。その功績は今も長岡市民に語り継がれ、“復興の恩人”と呼ばれています。

三島億二郎は、長岡藩の下級武士の家に生まれました。河井継之助や小林虎三郎とは幼馴染で、ともに長岡藩の藩校である崇徳館で学び、江戸に遊学した際には吉田松陰や勝海舟、坂本竜馬なども学んだ佐久間象山の私塾に通った経歴があります。

北越戊辰戦争では、河井継之助と意見が分かれ、継之助は新政府軍と交戦する主戦派、億二郎は新政府軍に従う恭順派でしたが、継之助が新政府軍と命がけで講和を結ぼうとして決裂したことを知ると、億二郎は継之助に従い、行動をともにしました。義に篤い人なんですね!
開戦決意の地記念碑(前島神社)

開戦決意の地記念碑(前島神社)

新政府軍との交渉(小千谷談判)が決裂した翌日、長岡藩軍事総督だった河井継之助は、三島億二郎とこの地で会談。「我を切り3万両とともに差し出せば、戦争は避けられる」と言う継之助に、億二郎は「是非もなし。生死をともにせん」と応じて開戦を決意しました。

【所在地】長岡市前島町226
【アクセス】長岡駅大手口からバス約20分、前川駅前下車徒歩約3分

三島億二郎に託された使命は、戦後長岡の復興

三島億二郎が最も活躍したのは、戊辰戦争後の1869(明治2)年に長岡藩の大参事(家老職に相当。現在でいうなら副市長!)に任命され、長岡の復興政策を託されてからのことです。

北越戊辰戦争によって長岡藩が受けた打撃は大変なものでした。戦争によって町が焦土と化しただけでなく、新政府軍に反旗を翻したということで大幅に減封されたため、藩士たちを養えなくなってしまったのです。

億二郎は大参事に就任すると、明治政府に救済を願うために政府高官のいる東京や京都に足しげく通うかたわら、藩士たちに帰農帰商を促します。また、復興のためには長岡の風土にあった新しい産業を起こさなければならないと考え、当時、国内の主力産業へと成長しつつあった養蚕や機織りなどの繊維産業に目をつけ、藩士の再就職を斡旋しようとしました。

ここで億二郎が画期的だったのは、失業した士族の妻などの女性たちに養蚕や織物の技術を教える「産物会所」や「女紅場(にょこうば)」を設立して、女性の自立を図ろうとしたことでした。これらは今でいうOJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)を行う職場のようなもので、封建体制下では家にいることが務めであった士族階級の女性に対して行ったことが、当時としては革新的でした。

長岡の未来を明るく照らす「ランプ会」

新しい産業を興して、生産を高めることを殖産興業といいますが、時の明治政府もこれを大いに奨励していました。三島億二郎は、この殖産興業によって長岡の復興を果たすべく、商人たちとも積極的に関わります。

そこで目をかけたのが16歳で家業を立て直し、唐物商を営んでいた商才溢れる「岸 宇吉」という若者でした。岸家の屋敷の離れには、なんと小林虎三郎が居を構えていたそうですが、身分の違いにこだわらずに億二郎や虎三郎から必死に知識を吸収しようとする宇吉に感心した億二郎は、彼と意気投合して1869(明治2)年に「ランプ会」を立ち上げます。

「ランプ会」とは、岸家にあった舶来もののランプを灯して、各界各層の長岡人が夜な夜な集い、文明開化の潮流や入手した舶来品の品評、長岡の自立復興策、これからの商工業についてなどを語り合う情報交換の場でした。現代に例えていうなら商工会議所のような役割を果たし、ここから新たな商売のアイディアが生まれていったとか。そのランプの灯りは長岡の未来を明るく照らすことになったのです。また、これはのちに渋沢栄一が会頭となり、商工業に関する様々な情報を調査・報告し、産業界の意見として広く発信を行なった東京商工会議所が発足する9年も前のことでした。億二郎は地域の産業発展のためには、情報交換や商売研究が必要だということをいち早く認識していたんですね。

地域経済活性化のために銀行を設立

三島億二郎は、長岡の産業発展に努めただけでなく、明治政府が行う経済政策にもとても敏感に反応しました。1872(明治5)年に公布された国立銀行条例を入手すると、これを読み解き、長岡にも銀行を作って紙幣を発行することができれば、地域の経済活動をより活発にすることができると考えた億二郎は、1876(明治9)年に条例が改正されて、銀行設立のための条件が緩和されたことを機に動き出します。

億二郎とともに奔走したのは、小林虎三郎の弟・雄七郎、栃尾地域出身の庄屋の息子・外山脩造(のちにアサヒビール、大阪ガス、阪神電鉄の創立に貢献)でした。彼らは維新後、福沢諭吉の慶應義塾で学び、経済に明るく、また当時大蔵卿を務めていた大隈重信とのコネクションもありました。

1878(明治11)年には、億二郎が広く出資を呼びかけて株主を募り、長岡初の銀行として「第六十九国立銀行(現在の第四北越銀行)」が誕生しました。民間に出資を呼びかけて株主を募るという手法は、1873(明治6)に渋沢栄一が「第一国立銀行(現在のみずほ銀行)」を設立した時の方法とよく似ていますが、実際2人はかなり頻繁な交流があったようです。

病院を設立し、貧しい人には医療を無償で提供

三島億二郎は、貧しい人たちに医療を無償で提供するなど、福祉の面からも長岡の復興を支えました。きっかけとなったのは、殖産興業の推進に伴い信濃川の開拓地に作られた麻畑に生息するツツガムシによる風土病の拡がりです。

億二郎の呼びかけにより、長岡の医療体制の充実に協力したのは、「ランプ会」のメンバーで、緒方洪庵の適々斎塾を経てオランダ医術を修めた梛野直と、幕府典医の松本良順から医術を学び、河井継之助に抜擢されて長岡藩の軍医を務めた長谷川泰でした。

億二郎は、1872(明治5)年に年貢過納分の返却があると、その一部を元手に元長岡藩領内の各組各村から拠出を募り、翌年には「長岡会社病院(現在の長岡赤十字病院)」を設立。自らが運営トップの病院掛を務め、前述の梛野直が医院長となって多くの医師を育てます。また、当時外国人の居留地となっていた新潟から外国人医師を招聘し、信濃川流域に蔓延していたツツガムシ病の根絶に取り組むなど、地域医療の充実に貢献しました。

「米百俵」の精神を受け継ぎ、視野の広い人材を育む

長岡の復興、そして未来のためには、人の育成こそが大事と考え、食いつないでいく米にも事欠く状況のなか、その米を換金して学校を作ることを提言した小林虎三郎の「米百俵」の精神を受け継ぎ、近代学校の創立に奔走したのも三島億二郎でした。

億二郎は、1872(明治5)年に年貢過納分の返却があると、「長岡洋学校(現在の県立長岡高等高校)」を開校します。そして、新しい校舎の建設よりも良い教師を育てることに力を入れ、旧長岡藩士で維新後は慶應義塾で学び、教鞭をとっていた藤野善蔵を招聘。善蔵は福沢諭吉の信頼も厚かった英語教師で、慶應義塾のカリキュラムや教科書を使い、長岡に近代教育の基礎を築きました。カリキュラムには英語教育のほかに、イギリスやアメリカの歴史なども含まれ、国際的な広い視野を持つ人材を育んでいきます。

また、億二郎は初等教育にも力を入れ、各地に小学校を作ると、そこへ教養のある士族を教師として送り込みます。これらの小学校では、読み書き、算盤のほかに、教材として『西洋聞見録』『西洋事情』『西国立志論』などが取り入れられました。こうした書物は、読書好きだった億二郎が東京で渋沢栄一、福沢諭吉などの実業家、政治家、知識人たちと多く関わってきたなかで見聞きしたもので、それらが長岡の子どもたちの教育にも活かされたのです。

誠意で人を動かし、未来を見通す明かりを灯す

午前中は「長岡洋学校」の校長兼事務長として、午後は「長岡会社病院」の運営トップとして、大忙しの億二郎でしたが、私生活では読書と釣りを愛す穏やかな人だったそうです。しかし、お酒はお茶がわりに飲んでいたとか! 長岡の日本酒は美味しいので、仕方がないかもしれませんが…

人柄については、非常に正直で真面目。億二郎の悪口を言う人はおらず、本稿でも度々登場した渋沢栄一や福沢諭吉といった当代一流の人物から、地元長岡の精鋭、有力者が、みんな「三島さんのためなら協力しよう!」とひと肌脱いでくれるほどの人望がありました。億二郎の誠意にみんなが動かされるんですね。

そして特筆すべきは、億二郎が作った「第六十九国立銀行(現在の第四北越銀行)」「長岡会社病院(現在の長岡赤十字病院)」「長岡洋学校(現在の県立長岡高等高校)」などは、彼の死後から130年ほど経った現在でも、長岡市民の暮らしや学びの場として大切なインフラ(社会基盤)になっているということではないでしょうか。その功績は、人々がともに豊かになる社会づくりを目指して近代日本の礎を築き、2024年からは新しい1万円札の顔となる渋沢栄一が残した功績となんら遜色なく、長岡の地で今も明るく輝き続けているのです。
三島億二郎の碑(悠久山公園)

三島億二郎の碑(悠久山公園)

長岡市民から「おやま」の愛称で親しまれている悠久山公園には、三島億二郎の功績を顕彰する石碑が建てられています。公園内には他にも、長岡の歴史を知ることができる郷土史料館や、河井継之助、小林虎三郎、山本帯刀(あの山本五十六元帥が家名を継ぐ!)などの碑もあるので、幕末から明治期の大きな時代のうねりを感じてみたいという方は、ぜひ訪ねてみてはいかがでしょうか。

【所在地】長岡市御山町80-5
【アクセス】長岡駅東口から悠久山行きバスで約15分、「悠久山」「悠久山公園入口」バス停で下車後、徒歩で15分