人々に慕われ、自然の中に生きた「良寛(りょうかん)さん」を知っていますか?

名主の家に生まれながらも争いごとを好まず出家し、地位も名誉も捨て、ただひたすら子どもたちと遊ぶことを喜びとした良寛さん。豊かな芸術的天分があり、人柄を感じられる温もりの書や詩歌をたくさん創作した良寛さん。様々な欲や競争に縛られながら生きている現代の私たちにとって、良寛さんの生き方はまぶしく映ります。貧しい生活の中にも自由と豊かさを感じられるのはなぜ・・・?今回は、そんな私たちを魅了してやまない良寛さんについて少しお話します!

良寛さんの生涯

〈良寛さんの誕生から出家〉
良寛さんは今から約260年前の江戸末期、長岡市のとなりにある出雲崎町の名家、町名主で回船問屋の長男として生まれました。当時出雲崎は北前船が寄港する港町で、交易が栄えていました。また、佐渡金山の陸揚げ港だったため、幕府直轄の天領でした。そんな恵まれた家に生まれながらも、良寛さんは18才の時に出家したのです。当時は政治経済上の争いが絶えず、そのような争いを悲観したことが、出家した理由とも言われています。

〈良寛さんの修業時代〉
良寛さんは出雲崎を出てから、備中玉島(岡山県倉敷市)にある円通寺(えんつうじ)という曹洞宗の禅寺で12年間修業し、その後は諸国行脚の旅に出ました。どこかの寺に入ったという記録はありませんが、土佐(高知県)の庵で、良寛さんらしい僧と会ったという記述があります。

〈良寛さん、再び故郷へ。五合庵での暮らし〉
寛政7年(1795)、良寛さんの父親が京都の桂川に身を投げて自殺をしました。それを知ったのか良寛さんは翌年、実家近くに旅の乞食僧として帰郷し、しばらく不定住の時代を過ごします。その後、燕市の国上山(くがみやま)の中腹にある五合庵(ごごうあん)という隠居用の庵に48歳で定住し、約11年間暮らします。仮住まい生活が多かった良寛さんの生涯の中でも、五合庵は特別気に入ったようです。ここでの生活は、里におりて托鉢しながら日々の生活を賄うというもので、良寛さんは家々を回り、お経を唱え布施をし、里の家からは米麦などの喜捨をいただいたのです。

〈乙子草庵時代~良寛芸術の円熟期〉
五合庵から里への登り下りが辛くなったことから、良寛さんが59歳のときにより麓に近い乙子(おとご)神社の草庵に移り住みました。ここで過ごした10年間が、良寛芸術の最も円熟した時期と言われています。

〈終の住処~木村家での暮らし〉
草庵での厳しい暮らしや老齢を心配したまわりの方々の勧めで、良寛さんが69歳の時に木村家(現在の長岡市和島地域)離れの庵室に移りました。良寛さんはここを終の住処として、豊かな晩年を過ごしました。

〈貞心尼との出逢い〉
終の住処となったこの地で、良寛は貞心尼と出逢います。良寛さん70歳、貞心尼30歳。手まり遊びにたとえた和歌を詠みかわしたのを機に始まった二人の清らかな師弟愛は、良寛さんが74歳で亡くなるまで続きました。
その時の様子をまとめた歌集「はちすの露」にちなんで、和島地域には「はちすば通り」と名付けられた通りがあります。

〈良寛さんの死〉
そして、良寛さんは天保元年(1830)夏頃から下痢と腹痛を訴え、12月には危篤状態となります。そして、亡くなる前日には「裏を見せ表を見せて散るもみぢ」と言い残し、翌年の1月6日、親しい人たちが見守る中、良寛さんは息を引き取りました。享年74歳。直腸がんが主な原因と言われています。
五合庵

五合庵

五合庵

五合庵は、森の中で目立たない極めて簡素な茅葺の小庵です。良寛はここで座禅をし、古典を読み詩歌を詠じ、時に托鉢に出かけました。現在の建物は大正3年に再建されたものです。

はちすば通り

平成3年4月に「良寛の里わしま」がオープンした際に、ここを訪れる人たちから当時の良寛さんと貞心尼の清らかな師弟愛の一端を感じてもらいたいとの思いから、良寛さんと貞心尼が歌を詠みかわしながら歩いたであろう、この木村家から良寛の里までの通りを「はちすば通り」と名付けました。良寛さんのお墓や良寛さんの托鉢像など、数多くの史跡が点在しています。

良寛さんの人柄が伝わる数々のエピソード

良寛さんにまつわる心温まるエピソードをいくつか紹介します。

①かくれんぼ
子どもたちとかくれんぼをすることになった良寛さん。鬼役の子どもが見つけてくれるのをじっと隠れて待っていましたが、なかなか良寛さんを見つけられなかったため、すでに良寛さんが帰ってしまったものだと思い込み、子どもたちは良寛さんを残したまま家に帰ってしまいました。翌朝、子どもたちが同じ場所に行ってみると、なんと良寛さんは昨日と同じ姿勢のままで息をひそめながら隠れ続けていたそうです。なんとも無邪気で純粋な良寛さんの人柄が伝わります。

②泥棒さわぎ
ある日、乙子神社の草庵で寝ていたところ、泥棒が入ってきました。良寛さんは寝ているふりをして様子をみます。ところが至極質素な生活を送っているものですから、盗むものが何もありません。そこで、泥棒は良寛さんが寝ている布団を剥ぎにかかります。良寛さんは剥ぎやすいように寝返りを打ちながら知らんふりをして、布団を与えてやったそうです。このとき詠んだ歌が「盗人(ぬすびと)にとり残されし窓の月」(泥棒はなんでもむさぼるように持って行ったが、窓から見えるあの月は取り残していったようだ)です。

③子どもの凧に書いた「天上大風」
托鉢をしている良寛さんのところへ子どもが紙と墨を持って、字を書いてくれとせがみました。書の依頼ならだいたい断っている良寛さんも、子どもからの依頼には「よしよし」と快く受けます。この紙をどうするのかと訊ねると、凧にするということだったため、「大空に良い風が吹き、上手に凧揚げができますように」という願いを込め、「天上大風(てんじょうたいふう)」と書いてあげました。

「良寛芸術」の奥深さ

  • 良寛の里美術館

厳しい修行と学問の中で、良寛さんはあたたかい人柄が感じられる書や歌、漢詩を数多く残しました。
〈良寛さんの書〉
良寛さんの書は線が細く、一見、素人が書いたようなつたない字の形をしています。
しかし、なぜかこの素朴な文字が、多くの有名人を夢中にさせてきたのです。
例えば、夏目漱石。執念で良寛の書を手に入れた漱石は、そのお返しに自分の書を求められ、こう言いました。「良寛を得る喜びに比ぶれば、悪筆で恥をさらす位はいくらでも辛抱つかまつる」。
また、現代を代表する書家のひとり、石飛博光(いしとびはっこう)さんは「良寛さんのあれを書いちゃったら、あの先が見えてこないのね。究極の、すべてをそぎ落としていったら、きっと残るのはああいう字が残るのかなと」。と評しています。

誰も真似できない、唯一無二の書のスタイルを貫いた良寛さん。なんだか書道界のピカソのような存在に感じられますね。

〈良寛さんの歌〉
良寛さんが生涯残した歌は1,400首、漢詩は600首もあると言われています。
「たくほどは風がもてくる落葉かな」(一人で生きてゆくにはこの草案の自然の恵みだけで十分であり、お金も地位も名誉も私には無縁です)

こちらの句は、乙子草庵時代に、長岡藩主が良寛さんを訪ねてやってきて、長岡藩に来ないかという誘いに対して断るために詠んだものです。風情を込めてやんわりと、しかしながら芯の強さを感じる見事な断りの句となっています。
「良寛記念館」&「良寛と夕陽の丘公園」

「良寛記念館」&「良寛と夕陽の丘公園」

良寛さんが生まれた出雲崎には、良寛さんの壮年期から晩年期までの遺墨のほか、良寛さんの逸話をテーマにした棟形志功などの作品が鑑賞できる「良寛記念館」があります。すぐ隣にはにいがた景勝百選第一位に選ばれた「良寛と夕陽の丘公園」があり、眼下には妻入りの街並み、遠くには日本海と佐渡、弥彦山などを一望できる絶好のロケーションが広がります。

愛弟子・貞心尼(ていしんに)との清らかな心の交流

貞心尼(ていしんに)という40歳も年下の尼僧との出逢いが、良寛さんの晩年に心温まる彩をもたらしました。

良寛さんの歌と書を知り、人柄に感銘を受けた貞心尼は、良寛さんの弟子になりたいと思い、住んでいた閻魔堂(長岡市福島)から20キロの道のりを歩いて、良寛さんの住む和島の木村家まで会いに行ったのです。このとき、貞心尼30歳、良寛さん70歳でした。しかし、良寛さんは寺泊のお寺に出かけていて不在でした。残念に思いながらも、貞心尼は次の歌と手毬を残して帰りました。

「これぞこの 仏の道に 遊びつつ つきや尽きせぬ 御法(みのり)なるらむ」(良寛さまは、仏の道を学ぶ手段として手毬をついて遊んでいますが、私も一緒に尽きない仏道を学びたいと思います)

寺泊から帰った良寛さんは、この歌と手毬を受け取り、「つきてみよ 一二三四五六七八(ひふみよいむなや) 九の十(ここのとを) 十とをさめてまた始まるを」という歌を返しました。この歌の「つきてみよ」には、手毬をついてみなさいという意味と、私について(弟子になって)みなさいという意味が込められているようです。
この年の秋に無事に二人は出会い、その後、良寛さんが亡くなるまで約3年間、清らかな心の交流が続いたのです。
貞心尼は、良寛さんとの歌のやりとりを歌集「蓮(はちす)の露」としてまとめました。このおかげで、後年、良寛さんが広く知られるようになったとも言われています。

良寛さんが私たちに教えてくれるもの

現代、私たちは、便利な暮らしを送るための物質的な豊かさ(お金など)をとにかく求めています。良寛さんは、お金もなく、食べ物もない中で、なぜ多くの心豊かな書や詩歌を創作できたのでしょうか。
良寛さんは、いっさいの名誉や欲を捨て、束縛からも離れ自然に任せることで、ただ一人の人間であることを選びました。そして、子どもたちを愛し、子どもたちと同じ目線で遊び、子どもたちもまた、良寛さんを慕いました。

どこにも属さず、何も持たず、自然と子どもたちを愛し、あるがままに生きる。

良寛さんの生きざまそのものを真似するのはかなり難しいことではありますが、いま少し、「心の豊かさ」について立ち止まって考えてみるのも良いかもしれません。
その時は、良寛さんの書や歌に触れたり、良寛さんのゆかりの地に足を運んでみてはいかがでしょうか。

良寛・貞心尼出会いの地~和島地域~

長岡市の和島地域は、良寛さんと貞心尼が出会った場所です。国道116号沿いにある道の駅「良寛の里わしま」は広大な敷地内に食事・買い物処や美術館が点在しており、「良寛の里美術館」では良寛さん晩年の絶品の書やゆかりの文人墨客の作品が展示されています。写真の地域交流センター「もてなし家」は約180年前(良寛さんが亡くなったころ)の古民家を移築して活用しており、ここでは和島地域の食材がふんだん使われた「食」を楽しむことができます。近くで飼育されているガンジー牛から作られる「ガンジーソフト」は濃厚な味わいで大人気です!

モデルコース「良寛の里 たずね道」

モデルコース「良寛の里 たずね道」

みんなに愛された良寛さま
良寛ゆかりの地を訪ね、良寛を学び、良寛の心に触れる旅
心温まる穏やかな旅をお楽しみください
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