最後のサムライ河井継之助の叶わぬ夢

2019.09.24

黒船の来航によって動き始めた幕末の日本は、薩摩藩、長州藩が主導して、倒幕への道を進み始めます。倒幕か、佐幕かに二分された世の中にあって、そのどちらにも与せず、非戦中立を保ち、ひたすら民の暮らしを豊かにすることで長岡を発展させようと夢見た男がいました。
その名は河井継之助。彼はどんな「理想」を掲げて、北越の小藩・長岡をどう先導しようと考えていたのでしょうか。
その足跡をたどりながら、継之助が夢見た独立中立論を紐解いてみましょう。

黒船の来航が、幕末動乱の火種に

  • 黒船来航に伴う国内の混乱を描いた錦絵「米船渡来旧諸藩士固之図(大錦三枚続横絵)」東州勝月画

↑「米船渡来旧諸藩士固之図(大錦三枚続横絵)」(東州勝月画、正眼寺蔵)

1853(嘉永 6)年6月3日、ペリー提督率いるアメリカ艦隊が浦賀沖に姿を現したことで、日本国内は開国か、攘夷かの幕末動乱の時代に突入しました。
 開国を強硬に推し進めた大老・井伊直弼が「桜田門外の変」で暗殺されると幕府の権威は失墜。そこで、15代将軍となった徳川慶喜は、1867(慶応 3)年10月、倒幕を掲げる薩摩藩、長州藩などに対抗するため朝廷へ「大政奉還」を行い、新たな政治体制の構築を試みます。しかし、薩長両藩は倒幕派の公卿を動かして「王政復古の大号令」を発布。徳川家および江戸幕府を政治から排除することに成功したのです。

日本を分ける戦争に、継之助と長岡藩も巻き込まれていく…

慶喜はこの動きに対抗するため、大坂城に拠点を移し京都に大軍を向かわせますが、薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍と「鳥羽・伏見の戦い」で激突。戦いは新政府軍の勝利に終わり、朝敵扱いされた慶喜は側近とともに大坂城を脱出し、江戸へ逃げ帰りました。その後、江戸に迫った新政府軍の西郷隆盛と、旧幕府側の勝海舟の会談によって江戸城は戦火を交えることなく無血開城され、将軍だった慶喜は水戸で蟄居が決まります。
 しかし、これに納得できない旧幕臣らが新政府軍と「上野戦争」を戦うなど、「鳥羽・伏見の戦い」に端を発した「戊辰戦争」は日本各地に飛び火します。東北では天皇の絶大な信頼を得て、幕末の動乱に揺れた京都の治安維持に尽力した会津藩士・松平容保が朝敵とされたことに同情が集まり、会津藩を救済するために「奥羽越列藩同盟」が結成されました。このストーリーの主人公・河井継之助率いる長岡藩もこの同盟に加入したことで、新政府軍と「北越戊辰戦争」を戦うことになったのです。

もっとも過酷な戦いの一つだった「北越戊辰戦争」

  • 北越戊辰戦争の様子を描いた「長岡城攻防絵図」。長岡市中の多くが戦火に巻き込まれたことが分かる。

↑「長岡城攻防絵図」(長岡市立中央図書館蔵)

「北越戊辰戦争」は日本各地で行われた戊辰戦争の中でも、もっとも過酷な戦いの一つであったと言われています。というのも、対峙した河井継之助率いる長岡藩は、徳川譜代の大名で幕府の老中を務めた家柄でしたが、その石高はわずか七万五千石。一方、新政府軍からしてみれば、北越の小藩の抵抗など一捻りに握り潰してしまおうと考えていたのでしょう。しかし、実際には長岡藩の軍事総督に就任した河井継之助の手腕に大いに悩まされたのでした。

継之助の采配によって、緒戦は長岡藩が完勝!

  • 継之助率いる長岡藩の戦いの火蓋が切って落とされた場所「榎峠古戦場パーク」

それでは「北越戊辰戦争」の最大の激戦地・長岡での攻防を見て行きましょう。時は1868(慶応 4)年5月10日。長岡藩領内に侵攻してきた新政府軍は、長岡藩の重要拠点であった榎峠を占領していましたが、継之助はまずここを奪還することで開戦の狼煙をあげました。そこから一気に榎峠の南東にある朝日山まで攻め込み、夕刻には山頂を占領。ここに大砲を設置して強固な要塞とすることで、新政府軍の攻撃を退けようとします。

ガトリング砲を用いて応戦するも、新政府軍の奇襲攻撃に長岡城が落城

  • 北越戊辰戦争で継之助が使用したと伝えられるガトリング砲の復元モデル(河井継之助記念館蔵)

思わぬ惨敗を喫した新政府軍の長州藩奇兵隊は、5月19日未明、折からの増水で濁流渦巻く信濃川を決死の覚悟で渡ると、寺島村(現在の中島)に上陸し長岡城を奇襲する作戦に出ました。この時主力部隊を率いて小千谷方面攻略に出ていた継之助は、不意を突かれた格好となり、急ぎ城下へ戻ると当時日本に三門しかなかったというガトリング砲を持ち出し、自ら凄まじい勢いで弾丸を連続発射させ応戦しましたが、時すでに遅し。長岡城は落城し、藩主や家族を会津藩領や越後加茂へ脱出させました。

一時は城を奪還するも、継之助は足に銃弾を受け…

  • 長岡城奪還作戦決行の地「八丁沖古戦場パーク」。当時は南北5㎞、東西3㎞にわたる定湿地帯だった。

一旦栃尾、加茂まで兵を退いた継之助は、長岡城奪還作戦を開始します。6月2日、長岡藩きっての精鋭・山本帯刀率いる牽制隊が、敵の軍需が集中する今町を攻撃。敵がこれに応戦している隙を見計らい、継之助率いる主力部隊が今町の後方に突入して、まず今町を占領します。さらに7月24日には、魔物が住むと言われる八丁沖を約700名の長岡兵が決然と渡渉して攻め込み、見事長岡城を奪還しました。この快挙に城下の町人たちは酒樽を開けて祝い、長岡藩兵を盆踊りで出迎えたというエピソードが残っています。
 しかし、長岡城奪還後も長岡藩兵は交戦に明け暮れます。その最中、激しさを増す新町口の戦いを応援するため、交戦している場所へ向かおうとしていた継之助の左膝に一発の銃弾が命中。頼れる指揮官の負傷に衝撃を受けた長岡藩兵は、急激に士気が下がり、7月29日、長岡藩は再び陥落してしまいます。それまで新政府軍は北陸道での思わぬ苦戦に大量の兵士を次々と送り込み、越後平野を覆い尽くすほどの勢いになると、長岡藩兵の必死の攻防も虚しく会津へ退却を余儀なくされました。

長岡の命運をかけてのぞんだ「小千谷会談」

  • 小千谷会談が行われた「慈眼寺」の山門 画像提供:小千谷観光協会
  • 会見の間 画像提供:小千谷観光協会

「北越戊辰戦争」では、新政府軍が2万に対し、長岡藩を中心とする奥羽越藩同盟軍は5千と、戦力の差は戦う前から明らかでした。負けることが分かっていながら、継之助はなぜ戦うことにしたのでしょう。
 長岡藩の開戦は、1868(慶応 4)年5月10日に新政府軍が占領していた長岡藩領内の榎峠を攻めたところから始まりましたが、実は継之助は長岡藩の重要拠点であったこの地から開戦前に兵を退かせ、新政府軍にあえて明け渡していたのです。それは、長岡藩が戦闘の意思がないことを示し、会津を討伐するという無益な戦を止めさせるためでした。
 1868(慶応 4)年5月2日、非戦の望みをかけて新政府軍が本営を敷く小千谷の慈眼寺へ、継之助以下長岡藩士3名は兵も率いず乗り込んでいきます。新政府を代表して対面したのは、土佐藩出身で血気盛んな24歳の岩村精一郎でした。継之助はまず、新政府軍から再三打診されていた出兵や献金の求めに応じなかったことを詫びた上で、戦争は勝っても負けても失うものが大きいので、今は内戦で国土を疲弊させるよりも諸藩が団結して新しい国づくりに邁進すべきではないかと説き、会津をはじめとする旧幕府軍との和睦説得のための猶予を願い出ました。しかし、岩村はその嘆願書に目も通さず、すがる継之助を振り払いました。

継之助が下した決断は、開戦やむなし…

  • 小千谷会談決裂後、継之助と億二郎が開戦を決意した場所「前島神社」に建つ記念碑

こうして長岡、ひいては日本の命運をかけた「小千谷会談」は不調に終わり、継之助の非戦中立の夢も敗れました。会談の翌日、継之助は幼馴染で新政府軍への恭順を主張していた三島億二郎と会い、戦が避けられなくなったことを詫びます。「俺の首と三万両を岩村に差し出せば戦わずに済むかもしれない」と言う継之助に、新政府軍には義がないことを悟った億二郎は理解を示し、継之助を筆頭とする長岡藩士たちの故郷と自分たちが掲げる正義を守るための戦いが始まったのです。

風雲渦巻く幕末の世に、藩主に大抜擢!

  • 幕府の老中なども務め、継之助を抜擢した長岡藩十代目藩主・牧野忠雅 画像提供:長岡市科学博物館

↑牧野忠雅肖像(長岡市立科学博物館蔵)

長岡のため、そして日本の未来のために非戦中立を志し、戦場においては見事なリーダーシップを発揮した河井継之助。そんな彼の人物像はどのようにして育まれたのでしょうか。
 時は再び、1853(嘉永 6)年にさかのぼります。ペリーの黒船が日本に開国を迫った時、当時の長岡藩主・牧野忠雅は幕府の老中として政権の中枢にいた人物でした。忠雅は西洋事情にも通じ、柔軟な思考の持ち主でもあったため、この前例のない事態に広く藩士から意見を求めます。
 この時、継之助は藩政改革の必要性を説いた意見書を提出すると、忠雅はこれを気に入って、継之助を三十石で目付格評定方隋役に任じます。
 継之助が提出したという意見書は現在残されていませんが、黒船来航に伴う混乱から無謀な攘夷論や安易な開国論を唱える者が多いなか、まずは足元固める改革が必要だと説いたものだったと想像されます。時勢の惑わされず本質を捉える河井継之助の人物像が見えてくる気がします。

国を治め民を救う「経世済民」思想との出会い

藩主・忠雅に気に入られた継之助は、その後、藩の財政について真剣に考えるようになります。継之助が傾倒したのは「経世済民(けいせいさいみん)」という思想で、これをもって「国を治め民を救う道」を究めたいと考えていたようです。幕末期にはどこの藩も財政が逼迫し、長岡藩も例外ではなかったため、継之助は何とかして藩の財政を立て直したいと考えていました。
 財政再建にあたりその道の師を探した継之助は、備中松山藩(現在の岡山県高梁市)で十万石以上あった借金を返済し、財政を立て直したという陽明学者・山田方谷のことを聞き弟子入りを決意。藩に西国遊学の願いを出すと了承され旅に出ます。

メモ魔の継之助。西国遊学中はこまめに日記を書く

  • 継之助が記した日記「塵壺」の表紙 画像提供:長岡市立中央図書館
  • 安政6年6月19日に名古屋城天守閣を見たことが綴られているページ 画像提供:長岡市立中央図書館

1859(安政 6)年6月、山田方谷に教えを請うために備中松山藩を目指して旅に出た継之助は、先々で各地の名所旧跡に立ち寄ったことが、彼の日記に記されています。
 まず江戸から東海道を進むと、途中、富士山五合目の村山宿まで登り、富士山の美しさにまるで「聖人のようだ」と感動を綴りました。また、持参した望遠鏡で名古屋城の天守閣を観察したことも綴られています。このような行動は、当時は一歩間違えば隠密活動と捉えられ、危険を伴うものでしたが、継之助は多くの事物を見分ける眼を養うため、城下や宿場町が近づくと望遠鏡を取り出して大勢を把握してから入っていくのが習慣になっていたようです。
 さらに大坂では、長岡藩の蔵屋敷に宿泊して船場などで商いの仕組みを学び、赤穂では「忠臣蔵」の浪士たちの墓を詣でながら、いかに安くて良質な塩を作ることができるかを学ぶなど、向学心旺盛なところを見せています。

陽明学者・山田方谷の教えが、藩政改革の指針に

  • 日記「塵壺」には、安政6年10月4日、佐賀で反射炉を見たことが記されている 画像提供:長岡市立中央図書館

↑日記「塵壺」10月4日:佐賀(長岡市立中央図書館蔵)

江戸を出て約1か月後、備中松山城下に着いた継之助は、早速山田方谷を訪ねます。方谷の教えでは、まず「義を明らかにして、その利を計らず」の考えで経済の改革を行い、合わせて「国を治める規律を整え、賄賂や贅沢を戒め、倹約により質素な生活を奨励する」ことが主な指針となっていました。
また、商売に力を入れ、特産品などを商人を通さずに売ることで利益を上げたり、優秀な人材がいれば身分を問わず士分に取り立てるという実践的なことまで学びました。この教えは、のちに継之助が長岡藩の改革に乗り出した際の大きな指針となります。
 方谷の元で学んでいた継之助ですが、途中、方谷が藩命により江戸に出張となった時には、一人備中松山を離れて九州を訪れ見聞を広めました。特に、剣術よりも砲術に関心の高かった継之助にとって、長崎に集まってくる新型兵器に関する情報は有益なもので、この時の経験がのちに北越戊辰戦争で新政府軍を苦しめることになるガトリング砲の購入につながったのではないでしょうか。

次々と改革に着手する継之助。その手腕は、まるでやり手の実務派官僚

  • 継之助の手腕を高く評価し、活躍の場を与えた長岡藩十一代目藩主・牧野忠恭 画像提供:長岡市立科学博物館

1860(安政 7)年春に方谷の元を去った継之助は5年後の1865(慶応元)年、長岡藩主・牧野忠雅から家督を継いだ忠恭(ただゆき)にも取り立てられ郡奉行になると、方谷の教えを基に藩政改革に着手します。
 継之助がはじめに行ったのは、役人の不正や賄賂を正し、農民からの不当な搾取を徹底的に監視することでした。合わせて氾濫する河川の治水工事などを行うなど善政を敷き、農民や民衆の心をがっちりと捉えます。
 やがて町奉行を兼ねることになった継之助は、さらなる改革を推し進めます。館内での賭博や贅沢を戒め、寄せ場を作るとそこに罪人を労働力として投入し、社会復帰への足がかりとしました。また、信濃川の通行税を撤廃して商品の流通を促しました。藩からでる余剰米や他領の米を買い、藩が直接関西に売りさばくようにしました。

継之助の藩政改革は、一足早い民主主義だった⁉

  • 継之助の政治信条「民は国の本、吏は民の雇」の書(河井継之助記念館蔵)

こうした改革は次々と成果を上げ、藩の財政はみるみる豊かになっていきます。継之助の改革の根底にあったのは、「民は国の本、吏は民の雇い」という考え方でした。民を支配する武士が踏ん反り返っていた時代に、役人は民の暮らしを良くするために働くものだという、まさに民主主義の根本となるような発想を継之助はこの時代に持っていたのです。

長岡の発展を夢み、武士の時代の終焉を予言⁉

  • 継之助が息をひきとった会津領塩沢村の矢沢家「終焉の間」は、福島県只見町にある河井継之助記念館に現在も保存されている

 幕末風雲の時代に生を受け、長岡の民の暮らしを豊かにすることで、長岡の発展を目指した継之助でしたが、その夢は「北越戊辰戦争」によって砕かれてしまいました。
 1868(慶応 4)年7月29日の再度の長岡城落城によって、会津領へ落ちていく長岡藩兵の担架の中に足を撃たれた継之助は揺られていました。実際には八里(約32キロ)の道も、その険しさから「八十里越」と呼ばれる峠道で、継之助は「八十里 腰抜け武士の 越す峠」と自嘲の句を詠んだと伝えられています。
 険しい峠を越え、会津領の塩沢村矢沢家にたどり着いた継之助は、旧幕府の名医・松本良順の治療を受けましたが、破傷風が悪化していて手の施しようもありませんでした。自らの死を悟った継之助は、家臣に棺桶と骨箱を用意させると8月16日に死去。享年43歳。行動をともにしていた従者の外山侑三には、「これからは商人の時代になるから」と言い残し、福沢諭吉に宛てた添状を書いて渡しました。外山はのちに実業界で成功し、アサヒビールや阪神電鉄の創業者になっています。
 継之助の遺体は遺言により河原で火葬され、遺骨は会津へ届けられると会津藩士・松平容保も列席のもとで葬儀が行われました。越境した長岡藩士たちは、会津領只見村の村民にあたたかく迎えられて行軍を再開。その後も多くの犠牲を払って奮戦しましたが、「奥羽越列藩同盟」の諸藩が次々と白旗を掲げるなか、9月25日、米沢城下の越後は征討軍の本堂に無念の降伏を申し入れています。

継之助の意思を継ぎ、復興を遂げた長岡

  • 北越戊辰戦争後の長岡復興に尽力した三島億二郎の肖像画 画像提供:長岡市立中央図書館
  • 小林虎三郎の肖像写真 画像提供:長岡市立中央図書館

 約3か月に及んだ「北越戊辰戦争」、長岡藩の戦死者は約三百数十名、領民も百名近くが犠牲となり、長岡の町は焼き尽くされてしまいました。戦後、新政府によって長岡藩は賊軍と蔑まれ、藩主・牧野家の断絶こそ免れましたが、禄高七万四千石が二万四千石に減封され、士族の暮らしは飢餓と貧困に陥ります。
 戦後長岡の危機から再興を目指し尽力したのが、継之助の幼馴染だった二人でした。
 一人は三島億二郎。「小千谷会談」の後、継之助が開戦か非戦かをめぐる最後の決断を下す際に相談した人物です。億二郎は戦後、長岡藩の救済を求めて東奔西走し、1870(明治 3)年に藩の財政状況から廃藩を決定すると、士族の帰農、帰商を促し、継之助が予言したように商いが次世代の主役になると考え、商人たちと手を取り合って殖産興業を推進しました。
 もう一人の人物は小林虎三郎。飢餓にあえぐ長岡藩でしたが、虎三郎は支藩の三根山藩から届いた救済米を売却し、その金で国漢学校を整備して長岡の人材育成に努めたことが、「米百俵の故事」として知られています。このエピソードは、2001(平成 13)年に時の内閣総理大臣・小泉純一郎の所信表明演説で取り上げられたことで一躍有名になりました。

河井継之助が現代の私たちに語りかけるもの

  • 河井家の邸宅があった長岡市長町に建つ「河井継之助記念館」には、継之助の偉業を偲ぶ数々の展示品が並ぶ
  • 北越戊辰戦争の攻防が繰り広げられた信濃川に架かる「越の大橋」西詰には、河井継之助の名を全国に知らしめた司馬遼太郎『峠』の碑が建って居る 画像提供:小千谷市観光協会

 河井継之助の魅力は、現代のように管理化が進んでいた封建制度の下にありながら、自由な発想で自ら考えることの大切さや、義理や正義といった「義」を貫くことの潔さ、そして、たとえ相手が巨大な組織であってもそこに非があれば立ち向かうことの勇ましさなど、世の中の大きなうねりとともに押し寄せる様々な困難とぶつかった時に、それを乗り越えようとする勇気やヒントを私たちに与えてくれるところにあるのではないでしょうか。
 その人物像については、長岡市にある河井継之助記念館にお出かけいただくことでより身近に感じられるでしょう。2020年には、河井継之助を主人公にした作家・司馬遼太郎の傑作歴史小説『峠』を原作とする映画『峠 最後のサムライ』(主演・役所広司)が上映されます。映画を観る前に長岡市内にある継之助ゆかりの地を巡れば、映画をより一層お楽しみいただけます。幕末好きな皆様は、ぜひ長岡へ足をお運びください。