継之助終焉の地「只見歴史探訪 八十里を越えたサムライたち」日帰りバス旅行

2021年11月3日、例年晴天に恵まれることの多い「文化の日」でありながら、薄曇りのはっきりしないお天気の中、河井継之助終焉の地只見町を訪ねる日帰りバスツアーに参加しました。只見村の会津藩代官 丹羽族は、長岡藩などの食糧調達のため自刃した、その事件を丹念な現地資料調査のもとにまとめ上げた力作「平六と族」の著書で当事者の子孫である鈴木喜六氏が特別に同行してくださいました。

「道の駅いりひろせ」で最初の休憩

アオーレ長岡を出発し、国道290経由で「道の駅いりひろで」でトイレ休憩。到着時間が早すぎて、道の駅はまだ閉館中。

六十里越雪わり街道を進む

入広瀬から只見町に向かう六十里越雪わり街道は紅葉が見頃で、継之助がここを越えた時期には残念ながらこの紅葉を見ることはできなかったのか等、歴史に思いを馳せながら車窓を楽しみました。カーブが多い道であるにもかかわらず、ガイドの山田さんは河井継之助の事だけでなく「只見線」の歴史まで説明してくれます。

田子倉レイクビュー

田子倉ダムにある「田子倉レイクビュー」で休憩。遠くに見える三角の山は、会津のマッターホルンと呼ばれている「蒲生岳」。只見の「河井継之助記念館」はこの山の麓にあります。田子倉ダムは一番水量の少ない時期を迎えていました。

丹羽族自刃の家

車窓から「只見代官所跡」(丹羽族自刃の家)を見学。慶応4年8月、長岡藩士やその家族が只見に避難してきた折、会津藩の野尻代官・丹羽族は只見代官所に常駐し、食料の確保に奔走しますが、万策が尽き、死をもって償われたというこの場所で、今回のツアーに同行された鈴木喜六先生は生まれました。

旧長谷部家住宅(叶津番所)

江戸時代、長谷部家住宅は叶津番所と呼ばれ、会津と越後を結ぶ八十里越えの関所として通行人や物資の出入りを監視する役目を担っていました。
叶津村名主宅でもあり、明治時代には戸長役場として使用されました。桁行13間近い規模の大きな厩中門造りで、江戸時代後期の建築です。
当時のままの雰囲気を残した建物にタイムスリップ感覚を味わいましょう。

「そば処しおざわ庵」でランチ

お昼ご飯は、河井継之助記念館の近くにある「そば処しおさわ庵」。河井継之助記念館の近くに飲食店が殆どないため、地元の有志が観光客に憩いの場を提供したいと力を合わせて運営しています。古民家を改装した店内には自然木を使った趣のあるテーブルが置かれ、心落ち着く座敷になっています。※現在は営業していません。
蕎麦は只見産粉をつかった十割そばです。丁寧に打った蕎麦は、味がよく歯ごたえがしっかりしています。天ぷらの野菜も地元産とのことですが、にしんの天ぷらは珍しかったです。

只見町『河井継之助記念館』(かわいつぐのすけきねんかん)

只見町の河井継之助記念館です。長岡の河井継之助記念館は、「かわいつぎのすけきねんかん」と呼びますが、ここでは「かわいつぐのすけきねんかん」と呼びます。記念館前は只見川が広がり絶景が望めます。踏切を渡って入場するスタイルも楽しいです。
ここには河井継之助終焉の間、塩沢、矢沢宗益宅がそのまま館内に保存されています。
河井継之助記念館

河井継之助記念館

広い館内には、河井継之助終焉の間、塩沢、矢沢宗益宅が残されています。
実際に河井継之助が療養時に使用した枕と毛布と傷薬が展示されています。それにしても、この時代の傷薬とはどんなものだったのでしょう。毛布もあまり暖かくなさそうです。

河井継之助の墓

記念館から少し歩くと、医王寺の境内に河井継之助の墓があります。お墓に向かう道中の景色も素敵です。遺骨は戊辰戦争終結後に長岡に運ばれ栄凉寺に葬られました。このお墓は火葬の際に残された遺骨を村民が拾い集めて建てたものです。新政府軍の目を欺くため、お墓だとわからないよう祠の様式にしてあります。

越後ゆきくら館(玉川酒造)

最後の見学地は魚沼市の「越後ゆきくら館」(玉川酒造)です。
ここでは酒蔵見学と試飲が楽しめます。特殊なシートで保存した雪を利用した貯蔵庫の庫内は2~3度に保たれています。主に大吟醸が眠っているそうです。
「越後ゆきくら館」試飲コーナー

「越後ゆきくら館」試飲コーナー

越後ゆきくら館の売店には試飲コーナーがあります。何種類もある玉川酒造のこだわりのお酒にテンションが上がります。