小林虎三郎を偲ぶ散歩道【半日コース(4時間以内)】
小林虎三郎は、戦火を免れた昌福寺の本堂を借りて、子どもたちに「素読」(論語などの読み方)を教えていました。
長岡藩の窮状を知った三根山藩から米百俵が見舞いとして贈られてきましたが、時の大参事、小林虎三郎は、百俵の米を売却し、文武両道に必要な書籍、器具の購入にあて、国漢学校の設立資金にしました。
こうして明治3年6月15日、国漢学校の新校舎が坂之上町(現大手通2丁目)に開校します。
この国漢学校創立時の故事をもとに、文豪・故山本有三氏が戯曲として書き下ろしたのが「米百俵」です。
山本有三の戯曲「米百俵」の中で、虎三郎は「早く、米を分けろ」といきり立つ藩士たちに向かって語りかけました。
「この米を、一日か二日で食いつぶしてあとに何が残るのだ。国がおこるのも、ほろびるのも、まちが栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある。」
この教育第一主義は、「人づくりはまちづくり」として受け継がれたきた米百俵の精神です。
五感を研ぎ澄まし、復興を遂げたまちの歴史を感じてください。
1
長岡城本丸跡の碑
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北越戊辰戦争での攻防戦により、炎に包まれた長岡城。
もうもうと火の手が上がる城を後にしながら、長岡藩士たちは再起を誓って会津へと向かった。
現在、市街地の整備によって城は跡形もなくなってしまったが、ありし日の光景を、坂之上小学校伝統館に展示された復元模型や長岡藩主牧野家資料館(さいわいプラザ3階)で確認することができる。
2
長岡城二の丸跡
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現在の長岡駅付近が本丸跡、アオーレ長岡付近が二の丸跡です。
アオーレ長岡隣に「長岡城跡」の碑があります。
元和4年(1618)3月、堀直竒移封のあとに入部(ニュウブ)した牧野忠成は、堀氏の長岡城築城を継承し、「苧引形兜城(オビキガタカブトジョウ)」と呼ばれる長岡城を完成させました。
3
米百俵の碑
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小林虎三郎らは戊辰戦争後の明治2年(1869)、昌福寺の本堂を借りて国漢学校を開校しました。
翌年、三根山藩から送られた米百俵を売却して資金を作り、ここに新校舎の開校を迎えました。
国漢学校には洋学局、医学局も設置され、さらに藩士の子弟だけでなく町民や農民の子どもも入学を許可されました。小林虎三郎の教育方針が貫かれ、生徒一人ひとりの才能をのばし、情操を高める教育がなされました。これは長岡の近代教育の基礎となっています。
昭和50年(1975年)に長岡市は小林虎三郎没後100年を機に、小林虎三郎の生んだ米百俵の精神を想い起こし、教育尊重の市民性をさらに高めて、文化の香り高いまちにしようと、国漢学校跡地に「米百俵之碑」を建設しました。
4
興国寺
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晩年、東京で暮らした虎三郎は、向島にいた弟・雄七郎の自宅で明治10年(1877)8月24日に死期を迎えました。
はじめは上野の谷中共同墓地に葬られましたが、その後、小林家の菩提寺だった興国寺住職の中村良辨が、郷土長岡でその遺徳を偲ぶため、虎三郎と弟の雄七郎の遺骨をここに移しました。
墓碑には、二人の名が並んで刻まれています。
5
昌福寺
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戊辰戦争時下、寺院も軍施設として供用される中で、昌福寺は負傷者を手当てする軍病院として利用されました。
その後、戦後間もない明治2年、小林虎三郎が焼失を免れた昌福寺の本堂を借りて学校を開きました。
現在、門前には「長岡国漢学校発祥之地」の碑が建っています。
寺内には長岡空襲殉難者の慰霊塔と、幕末きっての洋数学者・鵜殿団次郎の墓があります。
6
阪之上小学校伝統館
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「国漢学校」の流れを汲む長岡市立阪之上小学校。
「米百俵の精神」とともに受け継がれてきた資料や市民のみなさんが提供した品々を展示しており、中には、虎三郎が国漢学校で用いた教科書などの貴重品も現存します。
長岡城下の復元模型なども必見です。
7
如是蔵博物館
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「互尊独尊」思想を説いて、学校・社会教育等の事業に尽力した野本恭八郎の収集品を公開する博物館です。
歴代の長岡藩主や山本五十六、河井継之助などの先人たちの遺品を間近に見学することができます。