長岡空襲の史跡をたずねる【1日コース】
長岡市内には長岡戦災資料館、山本五十六記念館、山本記念公園をはじめ、平和の森公園、明治公園、平潟神社など徒歩で回れる範囲に長岡空襲関連の施設・史跡がございます。
少し足を延ばせば昌福寺、また車で移動の距離となりますが左近町(模擬原子爆弾投下地点跡地)にも碑があります。
空襲の史跡を訪ね、平和の尊さについて考える機会としてはいかがでしょうか。
長岡まつり・大花火大会で知られる長岡ですが、
空襲から1年後の昭和21年8月1日に開催されたのが、長岡まつりの前身である「長岡復興祭」です。
この祭によって長岡市民は心を慰められ、励まされ、固く手を取り合いながら、不撓不屈の精神でまちの復興に臨みました。
そして昭和22年には花火大会が復活。
長岡花火に込められた想いは、時を重ねてもなお変わることなく、今を生きる私たちの中にしっかりと受け継がれています。
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長岡戦災資料館
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長岡空襲の惨状を伝えるさまざまな資料を展示し、平和の尊さを次世代に伝える資料館です。
燃え上がる炎の中を逃げ惑い、血のにじむ思いで戦後を生き抜いてきた空襲体験者は高齢化し、いまや市民の多くが戦後生まれの世代となりました。
いま、豊かさと活気にあふれた長岡のまちで、私たちは平和をあたりまえのこととして暮らしています。しかし、世界にはいまだに戦禍に苦しむ人々が絶えません。こうしたことをよその国のことと考えずに、地球市民として平和を願いながら、関心を寄せていくことが、今を生きる私たちに求められています。
平成15年7月、長岡空襲の惨禍を記録・保存し、伝えていくため、長岡戦災資料館を開設しました。
ここは、長岡空襲を語り継いでいくための市民活動の場です。長岡空襲を体験された市民と、戦争を知らずに育った戦後世代の市民とが、それぞれに力を出し合い、平和のために一緒になって活動し、次の世代に平和の尊さを伝えていきます。
※【QRトランスレーター設置】使い方はこちらをご覧ください。
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山本五十六記念館
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※マスクの着用をお願いします。
※見学をご希望の方は事前にご連絡ください。また、やむを得ず入場制限を行う場合があります。
※8月1日(月曜日)~8月4日(木曜日)の事前連絡・団体予約の受付は停止します。
長岡が生んだ偉人「山本五十六」の生涯の足跡をたどり、その「人となり」を紹介する記念館です。
●主要展示品:山本五十六の遺品、「人となり」の紹介
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山本記念公園
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山本五十六のかつての生家・高野家があった地に整備された公園。園内には五十六の生家(復元)と胸像が建造されています。
本来この場所にあった本物の生家は、昭和20年8月、太平洋戦争末期に米軍による大空襲で焼失したため、今は復元された生家が残っています。胸像は、昭和23年、霞ヶ浦の湖底から引き揚げられた胸部をブロンズ像に鋳直したものです。
山本記念館の道を挟んで反対側なので、是非両方お立ち寄りください。
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明治公園「長岡空襲爆撃中心点の碑」
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長岡空襲では焼夷弾の投下によって、市街地の約8割が焼け野原となりましたが、アメリカ軍の資料から、爆撃の作戦が明らかになりました。
アメリカ軍は1945年6月に長岡地域を空撮し、作成した航空写真に爆撃目標範囲となる半径4,000フィート(約1.2km)の円を描き、その円の中心を狙って爆撃する作戦をとったのです。
その中心点にあたる明治公園内に碑があります。
爆撃が北部の工場地域でなく、人口密集地域をねらったことがわかります。
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平和の森公園
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長岡空襲の犠牲者1,480余名の中には、280名あまりの学童が含まれていました。
このいたいけな学童たちの霊を慰めるため、県教職員組合は全県下から募金を募り、集まったおよそ150万円をもとに像を作りました。
慰霊と平和への限りない願いを込めて「平和像」と名づけられ、1951(昭和26)年11月に長岡駅前広場に設置されました。
その後、この平和像は悠久山公園、明治公園と移転しましたが、1996(平成8)年、市民の平和への願いのシンボルとして新しく完成した平和の森公園に安住の地を得ました。
平和像の中には、銅版に刻まれた「昭和二十年八月一日長岡市戦災学徒名簿」が納められています。
公園内には、広島市から譲り受けた被爆アオギリ二世が植樹されており、長岡の平和のシンボルともいうべき公園です。
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平潟神社
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戦災復興のまちづくりが進むにつれ、市民の間に、空襲で亡くなった人が297人と最も多かった平潟神社の境内内に慰霊塔を建立しようという運動が始まりました。
一般からの寄附と市及び県の補助金によって、1958(昭和33)11月戦災殉難者慰霊塔が建立されました。
慰霊塔には「このような不幸を再び繰り返さないよう願いをこめて」と刻まれています。その後、老朽化のため戦災50周年に当たる1995(平成7)年に修復し、現在地に移転しました。
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柳原公園「柿川戦災殉難地の碑」
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柿川戦災殉難地の碑は、柳原町の柳原公園内(柿川の丹波橋側)にあります。
碑の高さは約1m。空襲当時、153名の人々が亡くなった神明神社の境内だったところに碑は建っています。
碑は、「清き柿川の辺り柳原町神明社境内で、1945(昭和20)年8月1日夜、太平洋戦争において此の地に空爆死された犠牲者の冥福を祈り、命日五十回忌を期に哀悼の意を捧げる。(後略)」と刻まれています。
(長岡駅からは徒歩約10分)
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昌福寺
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身寄りが分からない遺体は合同で荼毘に付されましたが、遺骨の埋葬場所はなかなか見つかりませんでした。
そうしたなかで、四郎丸の昌福寺が埋葬場所の提供を快く引き受けてくれることとなり、1945(昭和20)年9月に遺骨はようやく埋葬されました。
そして、1947(昭和22)年9月には、市民の寄附により墓碑が建立されました。
墓の正面には「戦災殉難者之墓」、裏面には「昭和二十年八月一日当市戦災 殉難者市長ほか千百四十名 茲に有志相計り全市民の浄財を以って永く菩提を弔う」と刻まれています。
また、昌福寺は、戊辰戦争時下、寺院も軍施設として供用される中で、負傷者を手当てする軍病院としても利用されました。
その後、戦後間もない明治2年、小林虎三郎が焼失を免れた昌福寺の本堂を借りて学校を開きました。現在、門前には「長岡国漢学校発祥之地」の碑が建っています。
長岡駅より約10分
【越後交通バス】長岡駅よりバスにて約15分乗車「三和町」、「市立劇場前」または「西宮内」バス停下車、徒歩約15分
【電車】JR宮内駅より徒歩約25分
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(長岡駅周辺からは距離があります) 左近町、永代橋付近「模擬原子爆弾投下地点跡地の碑」
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1945(昭和20)年7月20日午前8時13分。
左近町(当時は上組村大字左近)の畑に1発の爆弾が投下されました。
4人が一瞬にして生命を失い、5人のけが人が出るとともに、全壊2戸のほか、残り29戸のすべての家が大きな損傷を受けました。
そのとき投下された爆弾は、1945(昭和20)年8月9日に長崎に落とされた原子爆弾と同型(パンプキン型)、同重量(約5トン)の、いわゆる模擬原子爆弾であったことがわかりました。
原爆投下予定地だった新潟市を想定して長岡市北部工業地帯の津上(つがみ)製作所と呉羽紡績を目標としていましたが、雲のため目視できず、レーダーにより、長生橋を蔵王橋と誤って認識したため、左近に投下されました。